| 諫早干拓の始祖・山崎教清(川内町) |
諫早の中心街から、小野町に向かい、輪内(仲沖町)と、小野平野の境、半造川を越えた、左側が、川内町。その住宅の外れに、祀られている。(01/25/2002)

| 県下一の穀倉地帯と言われる、広々とした諫早平野は、数多くの先人達の苦労により造成された、干拓地である。 山崎教清は、天正年間の人で、時の諫早領主、西郷純堯の重臣であった。豊臣秀吉が、天下統一のため、島津征伐の兵を薩摩に進めたとき、純堯に対して、再三討伐軍に参加するように呼びかけが来たが、純堯はこれに応じなかった。 山崎教清は、国内の大勢を見抜き、この際は、秀吉方について、従軍することが諫早藩の安泰と隆昌を図る道であると説いて、再三主君に諫言したが、その意は通じず、かえって怒りに触れる結果となった。そのため役を辞し、西郷純堯の元を離れた。 秀吉は命に従わなかった西郷純堯を攻略するように、竜造寺家晴に命じた。家晴は天正15(1587)年7月、諫早の居城、高城を攻め、高城は落城した。 新しく領主になった家晴は、山崎教清の才気と、その卓見に心を打たれ、その人柄を惜しんで、自分の家臣になることを勧めた。しかし教清は、二君に仕えるのを潔しとせず、固く辞退した。 そのさい、かねて計画をしていた、干拓事業を願い出たところ、家晴は、ますます教清の誠意に感激し、家臣75人をつけて、これを許可したので、大規模な干拓事業が始った。 教清の手がけた干拓は、川内町付近一帯であるとされる。教清に仕え、この事業に貢献した、おもな人たちの碑が、西側に祀られている。 地元、川内町では、毎年2月15日に「教清祭」を行い、その徳を慕い、豊作を祈願している。 (川内町町内会説明看板から、一部転載) |